「なぜ児島なんですか」。商談で、海外のお客様からよく聞かれる質問です。1965年の国産ジーンズの話はすでに書きましたが、その前には、もっと長い布の歴史があります。塩田、綿、足袋、学生服。ひとつずつ、資料でたどれる範囲で並べてみます。
海だった土地に、綿が育った
倉敷市の説明では、およそ400年前まで、倉敷周辺は一面の海でした。児島はその名の通り島で、江戸時代の干拓によって本州と陸続きになります。児島商工会議所は2018年に「陸続き400年」の記念事業を行っています。
干拓地の開発で知られるのが、野﨑武左衛門です。岡山県の観光サイトによれば、1827年から1863年にかけて、いまの児島駅付近の野﨑浜を中心に161ヘクタールの入浜式塩田を開き、あわせて652ヘクタールの福田新田を干拓しました。その住まいが、ジーンズストリートの入口に立つ旧野﨑家住宅です。
干拓地は塩分が多く、米づくりには向きません。そこで塩分に強い綿やイ草が植えられた。日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語」は、この一文から始まります。
由加参りの土産、真田紐と足袋
江戸時代、児島では由加山への参詣客向けの土産として、真田紐や小倉織、足袋の生産が盛んになりました。綿が育ち、それを織り、縫う。厚手の木綿を扱う仕事が、この時点で町に根づいています。
明治に入ると、岡山県アパレル工業組合の年表では、1877年の西南戦争後に帯地の需要が落ち、足袋や厚司(あつし)、袴地へ生産が移ります。1906年には足袋の縫製に動力ミシンが入り、量産が始まりました。1916年から1919年にかけて、児島の足袋の生産量は1,000万足を超え、日本一になったと記録されています。
足袋の技術が、学生服になった
第一次世界大戦のあと、生活様式の変化で足袋の需要は減ります。そのとき、足袋で培った裁断と縫製の技術が学生服に転用されました。年表では大正の初め頃に学生服の製造が始まり、1921年に足踏みミシンを入れた量産化が記録されています。
戦後、1950年代半ばには児島の学生服が全国の約70パーセントを占めたと、業界団体の年表と地元企業の社史(昭和31年と記載)の双方が記しています。日本遺産の特集記事は「戦前は9割以上」とも書いていますが、算定の根拠が示されていないため、ここでは幅のある数字として受け取っています。ピークは1963年、1,006万着。東京オリンピックの前の年です。
ただ、同じ頃に転機が来ています。1950年代後半、国産のポリエステル(テトロン)が普及し、木綿の学生服は売れなくなっていきました。
1965年、ジーンズへ
倉敷帆布の社史は、足袋が衰退するなかで繊維業者が縫製の技術を学生服や作業服の製造へ転換したと記しています。厚い木綿を縫える職人と設備が、次の仕事を探し続けていた町です。
そして1965年。児島のマルオ被服(現・ビッグジョン)が、同社の公式沿革で「国産第1号」と位置づけるジーンズ「CANTON」を完成させます。nippon.comの記事によれば、デニム生地、リベット、ボタン、ファスナー、縫い糸、ミシンの多くを米国から輸入してのスタートでした。日本遺産の特集は、生地が硬くて縫えず、針を変えたり機械を直したりと試行錯誤を重ねて国産第一号が完成した、と記しています。
なお、岡山県の観光サイトは「昭和35(1960)年に国内初のジーンズが誕生」と書いており、起点の年には異なる説があります。このサイトでは、企業の公式沿革と倉敷市の説明に合わせて1965年を採っています。
生地も、国産になった
1970年前後に、岡山と広島の紡績・染織の会社が国産デニムの生産を始めます。公式沿革では、倉敷の紡績会社が1970年に「日本企業として初めてデニム事業を開始」し、福山の織布会社も同じ1970年に「日本で初めてロープ染色デニムを供給」したとしています。定義の違う二つの「初」が同じ年に並んでいるのが面白いところです。
1973年、ビッグジョンは国産デニムを使った純国産ジーンズを出します。縫製が国産になった1965年から、素材まで国産になった1973年まで、8年かかっています。
児島の仕事は、縫うこと、洗うこと
ここから先が、いまの産地の形です。生地づくりは井原や福山を含む備中・備後が中心で、業界団体の集計を引いたnippon.comの記事では、2024年の三備地区(備前・備中・備後)のデニム生産は2,605万平方メートル、国内シェアはほぼ100パーセントとされています。
児島の強みは、厚手の木綿を縫う技術と、洗い加工です。1970年代に洗い加工が始まり、1980年代にはストーンウォッシュ、ケミカルウォッシュが児島で開発されたと複数の資料が記しています。足袋の時代から続く「縫う」と、ジーンズの時代に生まれた「洗う」。この二つが、数キロの範囲に揃っているのが児島です。
シャッター街から、ジーンズストリートへ
2009年、味野商店街の空き店舗に、3店舗のジーンズ店が入りました。倉敷市の説明では、当時は「シャッター街になりつつある」通りだったそうです。地元のジーンズメーカーと生地メーカー、商工会議所、市が「児島ジーンズストリート構想」をつくり、2020年の時点で約40店、年間およそ20万人が訪れる約400メートルの通りになりました。2015年には児島駅が「JEANS STATION 児島」の愛称をもらっています。
2017年4月28日、文化庁は「一輪の綿花から始まる倉敷物語〜和と洋が織りなす繊維のまち〜」を日本遺産に認定しました。構成文化財には、旧野﨑家住宅も含まれています。塩田の家と、ジーンズの通りが、同じ400メートルの中にある。児島の歴史は、歩ける長さに収まっています。
この町の地図は 児島ジーンズ日和 に、世界の藍の話は 世界は藍かった。 にまとめています。来訪の際の参考になれば幸いです。
参考資料・出典(2026年10月20日確認)
年号や数字は、下記の資料の記述に基づいています。学生服のシェアや「日本一」の表現は業界団体の年表・社史・観光資料によるもので、官庁統計で裏づけたものではありません。
- 倉敷市「児島支所」ページ(児島は足袋・学生服でトップシェア、周辺は400年前まで海)https://www.city.kurashiki.okayama.jp/33451.htm
- 倉敷市 クラシキ文華「ジーンズの聖地 児島」特集(2020年4月。1965年国産第1号、ジーンズストリート2009年3店舗、約40店・年間20万人、JEANS STATION)https://citysales.city.kurashiki.okayama.jp/special/vol32_01/
- 倉敷市「日本遺産 一輪の綿花から始まる倉敷物語」(由加参りの土産、繊維工業出荷額全国1位)https://citysales.city.kurashiki.okayama.jp/chishiki/2244/
- 岡山県観光公式「おかやま旅ネット」旧野﨑家住宅(塩田161ha・福田新田652ha)https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/846/page
- 岡山県観光公式「Made in Okayama」(1960年説、児島・井原の集積)https://www.okayama-kanko.jp/feature/made_in_okayama/38
- 日本遺産ポータル STORY #049(干拓地の綿・イ草、構成文化財)https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story049/
- 日本遺産ポータル 特集(学生服9割、国産第一号の逸話)https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/145/
- 岡山県「日本遺産の認定について」(2017年4月28日)https://www.pref.okayama.jp/site/160/540722.html
- 岡山県アパレル工業組合「歴史」(足袋・学生服・作業服の年表)https://okayama-ap.or.jp/history/index.html / https://okayama-ap.or.jp/history/index2.html
- 倉敷帆布「ストーリー」(動力ミシン、学生服約7割・1,006万着)https://www.kurashikihampu.co.jp/story3
- 児島商工会議所「児島ジーンズストリート」「陸続き400年」https://www.kojima-cci.or.jp/about/area/jeans.html / https://www.kojima-cci.or.jp/sightseeing/look/jeansvillage.html
- ビッグジョン公式「ヒストリー」(1965年CANTON、1973年純国産)https://www.bigjohn.co.jp/
- クラボウ「DNA」(1970年デニム事業開始)http://www.kurabo.co.jp/english/dna/01/ / カイハラ「沿革」(1970年ロープ染色デニム)https://www.kaihara-denim.com/company/history/
- nippon.com「誕生60年 国産ジーンズ発祥の地・児島から世界へ」(2025年。輸入資材、三備2,605万㎡)https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02518/ / 同「ジーンズの聖地・児島」(2012年。洗い加工の時期)https://www.nippon.com/ja/views/b00602/
アイキャッチ写真:児島ジーンズストリート(2021年8月)。撮影 Asturio Cantabrio、CC BY-SA 4.0、Wikimedia Commons。
